研究概要
かさ高い置換基を活用して、新規な結合様式(新規な官能基)を有する化学種を安定な化合物として合成・単離し、その構造・物性を解明するという研究を行っている。
オレフィン、アルキン、イミン、ケトン、ベンゼンといった多重結合化合物は有機化学の中核をなす化学種である。では、これらの化学種の炭素、窒素、酸素等の第2周期の元素を同族の高周期典型元素(ケイ素、リン、硫黄など)に置き換えた化合物はどのような構造、反応性を持つのだろうか。このような疑問から数多くの化学者が高周期典型元素の多重結合化合物の合成に挑戦してきたが、最近まで成功例はなく、1970年代までは「高周期典型元素の多重結合化合物は極めて不安定であり、安定な化合物としては存在できない」と考えられていた。1980年代に入り、このような不安定化学種を安定化するための手段として、かさ高い置換基を導入して高反応性の部分を保護する「立体保護」が用いられるようになり、1981年のSi=C, Si=Si, P=P二重結合化学種の合成を契機に、種々の含高周期典型元素多重結合化学種が安定な化合物として合成されるようになった。
当研究室では、このような不安定化学種の研究を発展させるためには、より優れた立体保護基の開発が不可欠であると考え、下に示すTbt (2,4,6-tris[bis(trimethylsilyl)methyl]phenyl) 基およびBbt (2,6-bis[bis(trimethylsilyl)methyl]-4-[tris(trimethylsilyl)methyl]phenyl) 基を開発し、これを活用することにより様々な化学種を世界で初めて安定な化合物として合成・単離することに成功している。以下にその代表例を示す。
世界で初めての“重い芳香族化合物”の合成
ベンゼンの1つの炭素をケイ素に置き換えた化学種であるシラベンゼンは−20 ℃以上で重合してしまう極めて不安定な化学種である。しかし、Tbt基による立体保護を施すことで、初めて室温での取り扱いを可能にした。さらに種々の環構造を有する含ケイ素芳香族化合物を安定な化合物として合成・単離し、これらの化合物が芳香族性を持つことを明らかにした。さらに、より高周期の14族元素であるゲルマニウム、スズを有する化学種の合成にも成功し、ケイ素の系と同様に剛直な平面構造を有する芳香族化合物であることを実証した。特に2-スタンナナフタレン6は、第五周期元素であるスズでおいても環状π電子系を構築でき、芳香族性の概念を適応できることを実証した点で意義が大きい。これらの研究は新たな典型元素化学の領域を築いたものとして国内外で高く評価されている。
Reviews: Acc. Chem. Res., 37, 86-94 (2004); Bull. Chem. Soc. Jpn., 77, 429-441 (2004).
1: Angew. Chem. Int. Ed., 39, 634-636 (2000); J. Am. Chem. Soc., 122, 5648-5649 (2000).
2: J. Am. Chem. Soc., 124, 6914-6920 (2002); Angew. Chem. Int. Ed., 42, 115-117 (2003).
3: Organometallics, 21, 4024-4026 (2002).
4: J. Am. Chem. Soc., 119, 6951-6952 (1997); J. Am. Chem. Soc., 121, 11336-11344 (1999); Bull. Chem. Soc. Jpn., 73, 2157-2158 (2000).
5: Organometallics, 20, 5507-5509 (2001); Organometallics, 22, 481-489 (2003).
6: J. Am. Chem. Soc., 128, 1050-1051 (2006).
7: Organometallics, 21, 256-258 (2002).; J. Am. Chem. Soc., 125, 10804-10805 (2003).
8, 10: Organometallics, 25, 256-258 (2006).
9: Organometallics, 26, 4048-4053 (2007).
高周期14族元素間三重結合化合物 “重いアルキン”
アルキンの高周期類縁体であるジメタリンは、その特異な電子状態、構造への関心から古くから盛んに研究が行われている化合物群である。しかし、その実際の合成は21世紀を迎えてからあり、安定な化合物としての合成例は少なく、その性質を明らかにするのに十分ではなかった。当研究室においてもBbt基を用いることでゲルマニウム類縁体「ジゲルミン」11の合成・単離に成功し、実験化学および理論化学の観点からその三重結合性について明らかにした。最近では「ジシリン」12を炭素置換基を持つものとして初めて合成・単離に成功しその性質を明らかにしつつある。
11: J. Am. Chem. Soc., 128, 1023-1031 (2006).
12: J. Am. Chem. Soc., 130, 13856-13857 (2008).
“最も重い二重結合”の合成 “重いアゾ化合物”
これまでに、Sb=Sb (13), Bi=Bi (14), Bi=Sb (15), Bi=P (16)
二重結合化学種を安定な化合物として合成・単離している。これらの化学種も当研究室で初めて安定な化合物として合成された化学種である。特に、ビスマス−ビスマス二重結合化学種は、元素中最も重い非放射性元素であるビスマス*においてさえ、これまでの有機化学において共通の概念であった二重結合という結合様式が存在し得ることを実験的に証明した点で非常に重要な研究成果である。また、その構造化学的特徴を他の15族元素間二重結合化合物と系統的に比較し、これまで理論化学的研究により予言されていた重原子化合物における原子核の相対論的効果についても実験的な証明を得ることができた。
従来は209Biが陽子数及び中性子数が等しい最重安定同位体とされてきたが、ごくごくわずかにα崩壊することが分かり(2003年)、鉛(208Pb)にその地位を譲ることとなった。
Reviews: J. Organomet. Chem., 611, 217-227 (2000).
13: J. Am. Chem. Soc., 120, 433-434 (1998); Bull. Chem. Soc. Jpn., 75, 661-675 (2002).
14: Science, 277, 78-80 (1997).
15: Chem. Commun., 1353-1354 (2000).
16: Angew. Chem. Int. Ed., 41, 139-141 (2002).
含高周期典型元素遷移金属錯体の化学
最近では、Tbt基またはBbt基のかさ高さを利用した配位場制御および低配位高周期元素の特性に着目した新規な配位子を設計・合成し、種々の新規遷移金属錯体合成への活用を行っている。
かさ高いリン配位子による初めての白金−ジスルフィド(S−S)、ジセレニド(Se−Se)錯体 17の合成をはじめとして、硫黄またはセレンを用いた配位子による擬六配位パラジウム錯体 18、リチウム β-ジケチミナート 19の合成・単離およびその4族元素錯体への応用、 低配位リンを有する配位子およびその錯体20など、その可能性を見出している。
17: Angew. Chem. Int. Ed., 41, 139-141 (2002); Chem. Lett., 32, 170-171 (2003); Bull. Chem. Soc. Jpn., 76, 1577-1587 (2003).
18: Inorg. Chem., 44, 8561-8568 (2005); Chem. Commun., 177-179 (2006); J. Organomet. Chem., 692, 2716-2728 (2007); Heteroatom Chem., 18, 549-556 (2007); J. Organomet. Chem., 693, 1225-1232 (2008).
19: Chem. Lett., 33, 134-135 (2004); Organometallics, 25, 2457-2464 (2006); J. Organomet. Chem., 692, 44-54 (2007); Inorg. Chem., 46, 1795-1802 (2007).
20: Organometallics, 26, 3621-3623 (2007).